白血病からの生還(データ付き)

白血病で幹細胞移植を受けた詳細の記録です。

3回目の入院その27

Day66-68 解放

相変わらず、一人の病室で静かに過ごす日々が続いていました。先日も書いた通りですが、血球数も次第に安定してきて身体的にはかなりすっきりしていました。この頃のデータは、f:id:Diehard1:20180317111621j:plain

ヘモグロビンがやはり少なく、かと言って赤血球の輸血を必要とするほどでもありませんでした。

準無菌室内でウロウロする分には特に何も感じていませんでしたが、ちょっと運動しようとするとすぐに息が上がるのが悩みでした。寝たきり状態が2か月以上も続き、実際に体重が10Kg落ちてもいたので、全身の筋力もかなり落ちていました。読書をしていても腕が疲れるので、何度も姿勢を変える必要があるほどでした。自分は何となく助かったと思いつつ、この先の体力の回復に不安を感じていました。見た目でも、腕も足も細くなり、病人のお手本みたいになっていました。

前々回からの恐怖のサイトメガロウイルスについてですが、毎朝採血して検査していました。ようやくもう少しでゼロになるという話を主治医から聞き、また一つ峠を越したと思いました。ゼロと1を行ったり来たりしているという事で、ゼロが続くようになれば大丈夫ですよ、と言われ、ホッとしていました。

そして、ついに11月7日の朝の回診で、抗ウイルス薬の投与も終了する事、点滴から飲み薬に変更する事を告げられ、午後にカテーテルを外すことになりました。その時の嬉しさは涙ものでした。

カテーテルの撤去は設置の時と違い、処置室ではなく病室で外してもらいました。午前中のうちにシャワーを浴びて、首の周りも清潔にしておきました。午後になり、私の医師団の中の若い医師と看護師さんが病室にやって来て、私をベットに寝かせた状態で撤去が始まりました。防水シートをはがし、念入りに消毒をされます。針を固定していた糸を切り取り、針を抜きます。後は止血して完了です。設置した時とは違い、ものの15分くらいで処置は完了でした。

2か月以上も付いていた首のカテーテルが取れて、自由度は格段に上がり、だんだんと回復に向かっている実感がこみ上げてきていました。

また次回へと続きます

 

 

 

 

3回目の入院その26

Day 62-65 静かな病室 

この頃もサイトメガロウイルス陽性反応が出ていました。昨日、リスクについて書き込みましたが、この頃は全然危機意識が無く、無断で病院内をうろうろしそうな位まで気力は回復していました。

この頃のデーターは、

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白血球数も7000をキープしており、CRP(炎症反応)もほとんどなくなっていました。ただし、ウイルスの監視のために毎朝、血液データの採血とは別にもう1本採血が増えていました。

医師や看護師さんに無断で病院内をうろついていたら、思わぬ感染症にかかっていた可能性が高かったことでしょう。空気清浄機の音のほか、特に何も聞こえない静かな病室で1日を過ごすのが精神的に苦痛を感じるようになっていました。準無菌室で2人部屋でしたが、これから移植をする人の前処置に使っていて、同室の患者さんは1週間おきくらいで入れ替わりでした。11月に入ると同室の患者さんはいなくなり、また一人部屋になっていました。いわゆるツインのシングルユースみたいな感じでした。最上階でしたので、夜景が見える部屋でした。夜歯磨きしながら、階下の夜景を見て復帰してまた通常通りの生活に戻ることを考えていました。

持ち込んだ文庫本もほぼ読み終え、定期的に来る若い医師、看護師さん、家族との会話が楽しみの一つでした。特に週に一度の教授回診で、趣味が合う担当主任教授教授との会話が楽しみでした。ヘミングウエイの話なんかで盛り上がっていました。(私のところで足止めしてすみませんでした)とりとめのない会話をした後、教授は「これくらい元気になればまずは一安心ですよ。」とおっしゃって下さり、生き残れた実感が湧いてきました。入院前の治療方針説明で、5年生存率20%と言われていましたが、まず最初のハードルを越えた気がしました。

点滴も生理食塩水と抗ウイルス薬のみとなって来ていて、サイトメガロウイルスが無くなれば点滴を外してすべて飲み薬に切り替える方針だと主治医から聞き、外に出たいでしょうけどもう少し安静にしていてくださいね。と念を押されてました。

また次回に続きます。

 

3回目の入院その25

Day 59-61 サイトメガロウイルス

さて、入院生活も2か月半になろうとしていました。自分では皮疹との戦いくらいにしか思っていませんでしたが、昨日書いたサイトメガロウイルスと言うのが厄介だったようです。無菌室を出て準無菌室に移されたわけですが2週間たっても部屋から出る許可が出ませんでした。自分ではだいぶ回復してきた実感があったので、リハビリかねがね病室を出て病棟内を歩き回りたかったのですが、なぜか許可が出ませんでした。

改めてサイトメガロウイルスに関して調べてみると、移植患者にとってハイリスクな感染症のようです。”早期治療がなされない場合は、発熱、間質性肺炎腸炎、肝 炎、網膜炎、脳炎を発症し” とか、骨髄移植患者に対しては、” 再活性化したウイルスを抑制する細胞がドナー由来であり、 CMV に対するメモリーを有さないため重篤感染症を発症する。症状は同様であるが、その他、骨髄抑制(白血球減少、血小板減少)を認めることが多く、臓器移植 よりも重篤である。” とか書いてあります。

自分の判断で勝手にリハビリなんかしていたら、今頃生きていなかったかもしれません。大部屋でいろんな人と話をしたいとか考えていたのですが、主治医や医師団の賢明な判断で準無菌室に留まらせて貰っていたようです。良く私の体の状態を把握してくれていた医師団や看護師の皆さんには本当に感謝です。

皮疹の方は次第に腰からふとももあたりが中心になって来ていました。上半身の脱皮した所は突っ張る感じと、すこしかゆみがあったので、ヒルドイドを院内処方で出してもらい、毎日塗っていました。シャワーの後など保湿の為に上半身を中心にたっぷり塗っていました。以前から処方されてたステロイドの軟膏は皮膚の黒いとこのみ(この頃は太もも中心)に塗っていました。

この頃から、退院したら、何をしようかとか考えていました。YouTubeで釣りの動画を見たり、車のインプレッションなんかよく見ていたと思います。実際はサイトメガロウイルスが消えるまでまだ時間がかかりました。

また次回に続きます。

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3回目の入院その24

Day56-58  移り行く黒い影

さて、皮疹の方もだいぶ落ち着いてステロイドを減らしても大丈夫になってきました。点滴からではなく、確かブレドニンという飲み薬で処方されたのですが、その薬の苦いのなんの、味覚障害だったはずなんですが、この苦さは強烈でした。舌が普段の時だったら耐えれれなかったかもしれません。この薬も徐々に減らしていくそうで、最初は1日3錠を朝晩飲んでいたと思います。この薬を飲むときは水を口に含んでおいて、上を向いて口の奥の方に放り込み一気に飲み干します。そうしないと口の中に何とも言えない苦みがしばらく残って、いやな気分が続く事になります。

皮疹の方は腰から太もものあたりが”焼けた”状態に移っていました。だんだんと下に下がっていくのが何とも不思議でした。

この頃の白血球数は安定して7000前後に落ち着いていましたが、ヘモグロビンが少なく、少し動くと息切れするような感じでした。

そのほかに困ったことは、指先の感覚の麻痺で、粒の薬を出すのが痛くてできませんでした。ペットボトルも、缶ジュースも空けられない状態でした。その状態がずっと続いていたので、指先の感覚が戻るかどうか心配でした。実際、今も多少の違和感が残っています。痛くはないのですが、感覚が敏感になっているような気がします。あとは、手の皮膚が固くなって関節の内側が突っ張る感じがしていました。これはいまだに引きずっており、ハンドクリームが手放せません。

もう2か月もカテーテルを入れていて、早く取りたかったのですが、抗ウイルス薬を体に入れるためにまだ外せないとの事でした。サイトメガロウイルスの値が少しだけあるらしく、ゼロになるまで抗ウイルス薬の点滴を続けるようでした。このおかげで肺炎などの重傷な状態なならずに済んでいたと͡この時わかりました。時々発熱していたりしていたのがこのせいかと思いました。それと、免疫抑制剤の量も順調に減らしてきていました。

また、次回に続きます。

 

3回目の入院その23

Day52-55 GVHD続き

昨日、GVHDが悪化したことを書きました。その後も皮疹は続き、眠れぬ夜が続いていました。夜にステロイドの投与があったせいもあり、目がさえてしまうようでした。

この頃のデータは

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免疫抑制剤の効果もあり、白血球数が7000近辺まで落ち着いて来ていました。

弟からの100パーセント合致の同種間移植でここまで酷いGVHDなんか思ってもいませんでしたが、皮疹も口内炎も結構しつこく残っていました。ステロイド免疫抑制剤がようやく効いて来た感があり、急激な皮疹の広がりは無くなって来ていました。しかし、徐々に上半身から下半身へと移っていき、太ももの付け根まで到達していました。と同時に、首から肩くらいまでは皮膚が入れ替わり、皮疹の黒さとは対照的でした。皮膚が入れ替わった所は特にかゆみもなく、ただ、乾燥しているツッパリ感がありました。白い所には保湿クリームを処方して貰い、毎日塗っていました。黒い所にはステロイド入りの軟膏を朝晩塗っていました。

以前も書きましたが、かゆみが収まってきた黒い所はシャワー後にタオルでふき取るとポロポロとはがれてきます。ベッドの周りははがれた皮膚で粉がまぶされた状態になっていました。毎日掃除に来てくれる方には申し訳ないのでなるべくベッドの上で皮膚が落ちるようにして粘着ローラーでシーツの上を掃除していました。看護師さんもベッド周りの粉に気が付くと、掃除してくれ本当に感謝でした。

ステロイドのせいか、夜中にお腹がすくことがあり、せんべいや、菓子パンを食べていたことを思い出します。

熱は時々出ていましたが、37度台くらいで留まっていて、肺炎などの大事には至らなかった事は幸いでした。

食欲が出て来たこともあり、だいぶ回復の自信がついて来ていました。食べることは生きる事ですね。移植直後の食事が出来なかったあの4週間は、危なかったんだと今、つくづく思います。

また次回へと続きます。

 

 

3回目の入院その22

Day48-51 GVHD続く

ここで報告を一つ。実は先週、2年ぶりに出張に行ってきました。新幹線で2時間の出張でしたが、以前のようにきちんと仕事を終わして帰ってくることが出来ました。この病気の発覚前は、ちょっとした出張でも体がヘロヘロ状態で、家に帰ってすぐに泥のように眠らなければなりませんでした。翌日も朝起きるのが辛く、少し遅れて出社する事もしばしばでした。それを思うと、ほとんど健康な時の状態まで戻せてきていると感じました。普通に仕事が出来る幸せを感じました。

さて、一昨日は味覚障害について書きましたが、それと共に皮膚のGVHDも続いてました。

この頃の血液データは
WBC 10000前後
Hb 3.5前後
Plate 210000前後

やはり、白血球が高い状態が続いてました。皮膚の炎症は胸と背中が中心で、朝の問診のたびに医師団からいい感じで焼けてますねと言われるような状態でした。少し落ち着いて来ている感があるので、ステロイドを少しづつ減らしていきましょうという事になり、点滴の量を減らされました。免疫抑制剤も少しづつ減らしていくとの事で、皮疹との戦いはようやく終息に向かうのだろうと思っていました。10月も半ばを過ぎ、入院生活2か月に突入していました。

口内炎の方は、次第に治まって、甘味がわかるようになっていたので、家内に菓子パンや、どら焼きなどを買ってきてもらい、3時のおやつに食べるのが楽しみになっていました。自分ではこのまま快方に向かって行って、10月中には退院できるのでは?なんて考えていましたが、甘かったです。

50日目にして、発熱と皮疹が腕の方に再び出てきて、急遽ステロイドの量と免疫抑制剤の量を元に戻されてしまいました。両方とも急激に減らしたために体が順応しきれなかったようでした。振り出しに戻るの気分でした。医師からは少しづつ減らす作戦に変更する事を告げられ、退院が遠のいていくのが辛かったです。ゆっくりと順応していくしかないとはわかっていても、少しがっかりしました。

また次回へ続きます。

 

 

3回目の入院その21

Day44-47 味覚障害の憂鬱

昨日は千羽鶴を貰った話を書きましたが、孤独な闘いの中でも心配してくれている人たちがいる事、家族をはじめ古くからの友人たちの励ましなどで、絶対に無事に退院して元通りの生活に戻ることを考えられるようになってきていました。

この頃の血液データは

WBC 12000前後

Hb 3.5前後

Plate 210000前後

でした。白血球は多く、ヘモグロビンは少ない状態でした。白血球数が多いためGVHDが顕著に出ているように思えました。私の場合は皮膚でしたが、太もも近辺まで降りてきていて、かゆみに耐えるのが大変でした。首と腕のあたりはだんだんと皮膚が入れ替わり、白くなると同時にかゆみは引いていきました。口内炎もだいぶ収まり、ようやく顔の腫れもすっかり引いて来ていました。GVHDは出ないよりも出た方がいいとは言え、新しい白血球に順応していくのは時間がかかるように思えてました。実際、術後1年半の今も軽い口内炎が残っていますが、だいぶ小さくなってきておりもう少しで終わると信じています。

また、味覚障害が続いていたのですが、この頃、ようやく甘いが戻って来ていました。他の味に関しては”酸っぱい””と””辛い””は”痛い、”苦い”はよくわからない味、”旨味”とか”コク”とか複雑な味は感じることが出来ませんでした。主治医や看護師さんは「だんだんと戻ってきますよ」と言ってくれるのですが、食事のたびに憂鬱でした。放射線治療の影響と思われますが、唾液が少なく、食事もお茶で流し込むような感じでした。

ヘモグロビンが少ないせいか、病室を少し歩くだけで息が切れる感じがしました。食事で鉄分を取りたかったのですが、味覚障害の為どうにも食が進みません。主治医からは生もの以外であれば病院食以外の物でも食べて良いと許可が出ていたので(逆に食べれるものを食べてくださいと言われてました)、家内に頼んで肉の缶詰とかカップ麺とかたんぱく質、味の濃いモノを摂っていました。

体重は入院時64Kgだったのですが、この頃は53Kgまで落ちていました。ふと気が付くと、足がほとんど骨と皮状態まで細くなっていて、長い入院生活を物語っていました。

皮膚のGVHDは不思議なことに指先、頭から始まって下に移動して行ってました。

また次回に続きます。