入院1回目その6
4月23日 2回目の抗がん剤終了
さて、4月17日から23日まで7日間のビダーザの投与を受けました。2回目は湿疹も出ずに多少の微熱程度で済んだので、お通じ以外は体力的にも特に問題なく過ごせました。また、ステロイド剤の投与と吐き気止めの投与も受けていました。
2回目終了時の血球数は、
白血球WBC 1000
Hb ヘモ 9.7
Pl 血小板 80000
と、低空飛行です。でも、主治医によると血球数は減っているが薬が効いている証拠だそうで、これで無菌室に入るとかもする必要はないとの事でした。まずは一安心です。
24日には左手首に刺しっぱなしだった点滴の針も外され、解放された気分でいました。点滴のチューブが付いていると何かと不便で、Tシャツや病衣を着替えるときなどは一苦労でした。ただ針とチューブが刺さっているだけでなく、血液の凝固防止のために生理食塩水の点滴を24時間流しっぱなしにしていました。Tシャツを脱ぐときはまずは自分の腕まで脱いでおいて、次にチューブをたぐり、点滴の袋を通す作業が必要でした。最初は慣れなかったのですが、次第に上手く着替えることが出来るようになっていきました。また、点滴につながれていると、トイレに行くにも点滴スタンドを引っ張っていかなければならず、不便で仕方なかったです。
ただ、この腕の点滴も3回目の移植の際の首に固定したカテーテルに比べたら、なんてことはないモノでした。カテーテルのことは、3回目の入院の書き込みで詳しく紹介します。
今思えば、この頃はまだ薬で治るのではないかと言う淡い期待を持っていましたが、現実はそうではありませんでした。
次回は1回目の退院についてです。
入院1回目その5
入院生活について
突然の入院とはいうものの、事前に準備するものなどの資料を貰っていたので、それなりに準備をしてから入院したので、後から慌てて何か買わなければならないこともありませんでした。
洗面用具や、シャンプー・ボディーソープ、バスタオル、マグカップなどは新品を買っていきました。内履きも準備していったのですが、基本的に10階から出なければスリッパで過ごしてました。ただ、スリッパ自体は許可されているものの、入院初日に看護師さんから転倒防止のDVDを見せられます。点滴の薬剤の影響や、長期の入院による筋力低下のため、転倒しやすくなるようでした。転倒による骨折が意外と多くかなり気を付けるよう言われました。
それから、入院してすぐにバーコードのついたリストバンドを付けられます。バーコードには、私のデータが紐づけになっており、点滴の投与や輸血の際などバーコードで照合して、尚且つ名前と生年月日の確認をされ、それから投与になります。医療事故防止に万全を期しているように感じました。病棟の看護師さんたちはそれぞれパソコンをワゴンに乗せて持ち歩いて、必ず照合するようになってました。長い入院中に一度だけ、同じ点滴がダブって発注されていて、照合した結果、ダブりである事がわかりました。たくさんの患者さんが居るので、ミス防止にはかなり有効みたいでした。
朝の血圧測定、体温測定も毎日データとして入力され、発熱した時などは投与した薬を入力するなどかなりIT化が進んでました。月水金で採血があったのですが、おとといのデータを見たいと言うと、プリントして持ってきてくれました。
入院患者の一日のスケジュールは
6時 起床、洗顔、体温・血圧測定、体重測定
8時 朝食、服薬
9時 回診
10時 病室の清掃
12時 昼食、服薬
14時 検温
18時 夕食、服薬、体温血圧測定
21時 消灯
このような流れで1日が過ぎていきます。
21時消灯なのですが、各ベッドのカーテンを仕切り、ベットサイドライトを使い読書したり、テレビを見たり、意外と自由でした。
私も日中昼寝したりすると夜寝付けない事もしばしばでした。お見舞いでいろんな本を持ってきてもらったりしていたので、それを読んだり、スマホでFacebookを始めたり、Youtubeを見たりして過ごす事もありました。
入院前にコンシュルジュの看護師さんにパソコンの持ち込みについて聞いたところ、ダメと言われたのですが、他の患者さんは意外と持ち込んでいて、病棟の看護師さんに聞くと特に構わないという回答を貰いました。実際に持ち込んだのは3回目の入院の時にタブレットとレンタルWiFiを持ち込んだのですが、処方されている薬の情報収集とかにも役に立ちました。
後、私は愛煙家だったのですが、入院当初の2週間ぐらいが非常に辛かったです。ミンティアを大人買いして持ち込んでいました。結果的には禁煙を続けて現在に至ります。
また、無菌室以外の一般病棟での入院では、マスクさえすれば、院内の移動も特に制限はなく1階のコンビニには1日2回とか行っていました。
食事に関しては、やは病院食ですので、基本薄味で量も少なく感じました。ですので、夕食後にミニのカップ麺を食べたり、コンビニでチキンを食べたり、意外と自由に間食をしていました。医師からは特に制限されることはなく、生もの以外であれば食べたい物を食べて良いと許可を貰っていたので、1回目の入院の際はそんなに痩せる事もありませんでした。また、メニューも朝はパン食を選べたり、ご飯の代わりに麺に変えてもらったりも出来ました。抗がん剤後の食欲がない時なんかは良く麺に変えてもらってました。薄味なので、冷蔵庫には市販の梅干しを常時切らさずに入れてありました。1階のコンビニで売っている梅干しなので、減塩でしたが、これのおかげで何とかご飯が食べられました。
次回は2回目の抗がん剤の経過についてです。
入院1回目その4
4月17日
前回、1回目の抗がん剤(ビダーザ)の投与を受けたとこまっで書きましたが、結果的には湿疹のため、7日間の投与の予定が5日間で中止されてしまいましたが、血球数は一度下がったものの時間が経つにつれ回復傾向ではありました。
ビダーザの作用をネットとかで見るとまさに私が体験した血球数の推移を示すようです。投与中の皮疹も(バクタによるものと思われる)時間とともに無くなり、便秘も改善されてきました。投与中から飲み薬を処方されていて、抗生剤、抗アレルギー薬、胃薬、下剤などを飲んでいました。血球数が減ることによる感染症の予防的措置のようでした。
1回目の抗がん剤終了後から同僚や友人たちがお見舞いに来てくれて、励ましてもらいました。移植と違って、無菌室ではなく大部屋でしたので、マスク着用さえしてもらえば面会は大丈夫でした。面会に来てくれた人たちは、私の様子を見て全然元気そうなので、まずは一安心と言う感じを持ったと思います。病室では周りの患者さんもいたので、エレベーターホール前の談話コーナーで、いつもと変りなく雑談し長い時は2時間くらい話してました。差し入れなんかもいろいろ頂き、心配をかけてるなと思う反面、またみんなと仕事も遊びも楽しみたいという前向きな気持ちを持つことができました。
家族はもっと心配だったと思います。何せ病気が病気で有名人で若くして亡くなっている方が大勢いる病気ですから。心配をかけつつも、家内は隔日で通ってくれました。子供たち(高校2年と中学3年)もかなり心配してた事と思います。休日にはみんなで来てくれて、1回の喫茶室でコーヒーを飲んだりしてました。抗がん剤でもあまりやつれてなかったので、家族には心配をかけないように努めて明るく会話していました。
そして2回目のビダーザの投与の4月17日がやってきました。投与前に念のため湿疹防止のステロイドの点滴を受けます。15分くらいで終わるので、次にビダーザの投与を1時間かけて行います。今回はバクタ抜きで代わりに抗生剤を飲んでいます。また、ステロイドもそうですが、抗アレルギー薬も飲んでいたので、2回目の投与では湿疹に悩むことはありませんでした。投与後の軽いめまいと便秘だけはやはり1回目と同じでした。2回目の投与は無事に7日間続けることが出来ました。
ただ、投与最終日の血球数はやはり落ち込みました。
WBC 白血球数 1000
Hb ヘモ 9.7
Pl 血小板 80000
血球数や血小板が投与中または投与後に下がる場合は輸血をすると説明を受けていましたが、輸血することなく2回目のビダーザの投与が終わりました。
窓から見える公園や、山の中腹では桜がきれいに咲いていました。ひょっとしてこの薬が効いて治ってくれないかなぁ、なんて思っていました。
次回は病院生活について少し書きたいと思います。
入院1回目その3
3月29日顔にも皮疹が・・・
27日に腕と脇腹に皮疹が出たため、28日に院内の皮膚科を受診しました。皮膚科の先生はやはり薬剤性のアレルギーの疑いという事で、ステロイドの入った軟膏の処方をしてもらいました。1日に2回塗るのですが、朝と夜の入浴後の2回塗るようにしていました。
ここで入浴に関してですが、10階西病棟の第三内科では浴室が男女各1室づつあり、朝予約ボードに名前を書き込むシステムです。ボードには14時から20時30分まで30刻みで書き込み欄があり、私はいつも最終のコマを予約していました。浴室には浴槽と洗い場にシャワーが1個ありましたが、最初の頃、浴槽にお湯を貯めようと思ったら20分くらいかかり忙しない事がわかったので、基本的にシャワーで済ませてました。毎日、入浴を済ませてから歯磨きして消灯を待つのが日課になりました。
3月29日朝、歯磨きして鏡を見てみると、額にも皮疹が出ているのを発見しました。主治医と相談したところ、また皮膚科の予約を入れていただいて、その日の午後にもう一度診てもらいました。腕とか脇腹に塗っている薬とはまた違う軟膏を処方してもらいこれも毎日塗ってました。抗がん剤のせいなのか、肺炎予防のバクタのせいかはこの時はわかりませんでしたが、2回目の抗がん剤投与の時はあまり酷い皮疹は出なかったので、やはりバクタだったんだろうなと思います。
ここまで、副作用っぽい皮疹について書いてきましたが、この他の副作用で苦しかったのは便秘でした。4日くらいお通じが無いこともあり、そのせいで食欲も無くなるというこれまた2次的な副作用もありました。寝る前に看護師さんに下剤を貰い、祈るような感じで寝付くのですが、翌朝、水分を採ってもなかなか便意を催さず、2、3日置いてから出たときは、ホッとしてました。この症状は抗がん剤の投与が終わると治るのですが、以降の投与の際は常に下剤を処方してもらってました。
2回目の抗がん剤投与は4月17日からになったのですが、それまでの3週間は月水金で採血を行い、血球数の推移と球芽の状態の監視をしてたようでした、
抗がん剤投与中、直後にはWBCは900くらいまで下がり、1週間後とかには1800くらいまで回復する。そして3週間くらいすると1500くらいまでまた落ちていくを繰り返していました。
という事で、3月29日から4月18日までのデータは、
WBC白血球数は900~1800~1500
Hb ヘモ 9~11~10
Pl 血小板 70000~120000~90000
といった推移でした。
10階からの眺め。
次回は4月17日からの2回目の抗がん剤投与についてです。
入院1回目その2
3月27日
ビダーザの投与を受けて4日が経過したところで、前日の26日に肺炎予防のためにバクタと言う薬を処方されました。27日の朝起きてみると腕とか胸とかに湿疹が出ていました。主治医の話だとバクタによるアレルギー反応の疑いが濃いという事で、バクタを中止しますとの事。
肺炎予防薬が飲めないという事は、白血病患者には死活問題だと感じていたのですが、他の薬に切り替えるとの事でした。また、微熱が続いていたので抗生剤も処方されていました。この皮疹を抑えるために抗アレルギー薬も追加されました。
ビダーザは7日間投与の予定でしたが、この日の点滴で一旦様子見となりました。7日の予定が5日なので薬の量としては標準量の7割程度だったのでしょう。
私自身が薬でアレルギー反応が出たのは初めてでしたので、ちょっとびっくりしましたが、看護師さんに尋ねると、良くあることのようでした。
ビダーザは抗がん剤の一種ですが、かなりマイルドなタイプらしく、私には吐き気とか食欲不振とか倦怠感とかは多少あったかもしれませんが、気にするほどではありませんでした。少しめまいがするかな、くらいの程度で、点滴が終わって1時間もすると全然普通になっていました。また、脱毛もなく、傍目で見ればおよそ入院患者には見られなかったと思います。
このころの血球の数値は
WBC 1200~1500
Hb 10.0~11.0
Pl 70000~120000
と低空飛行が続いてました。
最初の入院では、ビダーザの効き具合と投与した時の観察も兼ねていたようで、次回の投与からは点滴前にステロイド剤を飲むなどの予防的措置がされ、皮疹もなく受ける事が出来てます。バクタは中止となりましたが、特に肺炎の兆候もないので、問題なかったみたいです。ただ、抗アレルギー薬、抗生物質、胃薬などは飲み続けていました。
4人部屋だったのですが最初のころはしばらく3人でした。私より2まわり位歳が行っている方、私よりも若い方が先に入院されていて、若い方の方は入退院を繰り返して足掛け3年になると話していました。詳しく病気の内容は聞きませんでしたが、血液内科なので同じような病気だと思われました。やっぱり、酷い病気に罹ってしまったと改めて感じさせられました。
次回は入院その3に続きます。
私の治療全容
助かった治療内容
前回、1回目の入院した所まで書き進めてきたわけですが、ここらで私が受けた治療の全容を整理しておきます。基本的に骨髄異形成症候群から進んだ急性骨髄性白血病AMLのM1タイプの治療です。私の場合は白血球数が大幅に増えるタイプではなく、単球が減っていくタイプですが、治療の流れとしては共通のところもあると思いますので、参考までに記しておきます。
ー発見期
1月初~3月中 約60日
ー入院(1回目)での抗がん剤治療 (ビダーザによる球芽のコントロール)
3月中~4月末 約45日
ー入院(2回目)歯科治療 (虫歯が炎症を起こし抜歯と抗生剤治療)
5月初~5月末 約20日
ー通院での抗がん剤治療(自宅療養とビダーザ投与)
5月末~8月中 約80日
ー入院(3回目)造血幹細胞移植と副反応対応
8月中~11月中 約90日
ー退院後自宅療養による副反応対応
11月中~現在 約200日
と言った流れ出来ています。実際に今日で移植283日になりました。もうすぐ1年ですので、だいぶ安心できるんじゃないかと思っています。4月に、マルクをしたのですが、白血球はドナー由来のタイプに置き換わっている事が確認されてます。球芽もなく、再発の兆候は内容です。
今考えると、最初の弱い抗がん剤での治療は、急激ながん細胞の白血球を抑えるだけの治療で、最終的には移植を視野に入れていてドナーが見つかるまでのつなぎの治療のようでした。移植の際、フルの放射線と抗がん剤による強い治療を受けたのですが、体力の消耗は凄まじいモノでした。年齢的にも51歳でしたので、体力の回復なんかも考慮に入れた治療の選択だったんだと思います。実際、治療前は67キロあった体重が現在でも57キロと10キロもマイナスしてしまいました。ベットに寝たきりの生活と、詳細は追って後述しますが、食事もままならない時期が続いた為、筋肉まで落ちてしまいました。
現在はほとんどの食事もとれるようになって来て、適度な運動もできるようになってきましたが、それでもまだ筋力は7割くらいの感じがしています。リハビリも一説によると入院期間の倍の期間が必要らしく、まだ毎日リハビリを続けている最中です。
ネットや、医療の参考書籍だと、標準的には最初に強い抗がん剤でまずがん細胞をたたき、寛解を目指し、その後フルの移植と言う流れが標準のようですが、私の場合は体力を温存させてからの移植のようでした。白血球数が急激に増えて体中を攻撃していなかったので、このような選択になったと思われます。
私自身は最初、強い抗がん剤でも、とにかくがん細胞を無くしてくれれば、そしてそのまま寛解の状態が5年続いてくれればと思っていたのですが、実際には移植してしまった方が確実であったことは確かですと言うか、移植の必要があったみたいです。
この病気に罹り、不安な方、ご家族が、と言う方、心配でしょうが主治医を信頼して治療を受ける事が大切だと思います。ネットなんかで見る標準的な治療も参考ですが、専門の医師の判断で症状よりけりの治療になるようです。移植前には私の標準的な5年生存率は20%と宣言されましたが、あくまで参考です。とも言われました。生存率のグラフでは1年目で約50パーセントで徐々にカーブが緩くなってきているグラフを見せていただきました。つまり、最初の1年を乗り越えれば、徐々に生存率も上がってくることを意味しています。この病気は命に係わる病気ですので、私も実際の治療中に不安に駆られた日々もありました。が、主治医や看護師さんなんかに不安なことは素直に聞いて、皆さん同じような症状が出ますよ。この薬を忘れずに飲んでください。とか、違う点滴を追加しますとか、対処療法にはなるのですが、必ず手を尽くしていただけるはずです。医療も日進月歩で進んでいていろいろな薬も開発中という情報もあります。まずは、主治医を信頼して治療を受け、心配であれば素直に聞く事、それが一番ではないでしょうか。それと生きる希望を持ち続ける事、助かると信じる事も大事だと思います。
私は今もまだ副反応GVHDが多少残って居るのですが、リハビリをしながら自然治癒力を高めるべく、ストレスをためないで毎日楽しく生活する事を心がけてます。
また、次回から、1回目の入院の様子の続きを投稿します。
入院1回目その1
3月22日
ついに入院の日が来ました。前回の説明を受けたときに、入院は数か月に及ぶ可能性を言われてましたので、かなりいろいろな物を準備していきました。パジャマは病院のものを1日75円で借りられたので、洗濯の手間とかを考え、借りることにしました。他の身の回りの洗面用具などは、大学病院の入院の手引きに従い新品を買い揃えていきました。午前中に到着した私はコンシュルジュで入院のルールを一通り説明を受け、入院の書類にサインし、病室に案内されます。
第3内科の病室は最上階の10階西病棟でした。10階は病院内でも感染症予防のためフィルターを通した空気が常に供給されているという事で、安心して治療に専念してくださいとのことでした。4人部屋には先に2名の患者さんが居て、空きベットは窓側と通路側にひとつづつ有り、どちらでも構わないという事でしたので、窓側を選びました。田舎ですので、10階からの景色は眺めがよく、晴れていれば蔵王山が一望できました。担当の看護師さん、婦長さんの紹介を受け、主治医も教授から、女医さんに変更になりました。しかし、教授を含めたチーム体制で治療を進めるという事で、安心して治療に専念することができました。
昼食の病院食の後、今後の治療方針について説明を受けました。説明では、まず、現在の持病とかウイルスチェックを行い、明日からでも抗がん剤治療を開始するという内容でした。このころの病状は自覚症状は微熱(37度無いくらい)が続いてました。
血液を9本採られ、検査に回されます。結果はその日の夕方にわかって、血球の減少以外は問題なしという事で翌日からの抗がん剤治療が決まりました。
血球数は
WBC(白血球) 1510
Hb(ヘモグロビン)11.5
Pl(血小板)91
と低空飛行のままです。
抗がん剤は1クール7日間、3週開けて2クール目に入る予定、つまり4週単位でで進んでいきます。
翌日3月23日から私が受けたのは弱い抗がん剤で、ビダーザという薬でした。血球が突然少なくなる可能性もあるので、毎日様子を見ながらの投与となりました。再生不良性貧血から、骨髄異形成症候群という病気に進行して、急性骨髄性白血病(AML)に至っているとの事で、あまり強い抗がん剤だと骨髄が急変する可能性があるための薬剤の選択みたいでした。
左腕に点滴の針を刺され、固定されます。
抗がん剤のリスク説明を受け、最初に生理食塩水の点滴、炎症予防のステロイドの点滴、その後、ビダーザの点滴が始まります。ビダーザの点滴自体は1時間くらいで終わりました。しかし、点滴は1週間続くので、生食に繋ぎっ放しになりました。(泣)
このころは、薬で治ればなぁ、強い薬でも試していいんじゃないかと思っていたのですが、医師チームは骨髄移植まで持たせるための必要最低限の治療と考えていたようでした。それは、実際の移植の際受けた強い抗がん剤の辛さでよくわかることになります。
今思うと、移植に向けて体力を温存する事を優先させていたんだと思います。
次回は入院4日目の話に移っていきます。