白血病からの生還(データ付き)

白血病で幹細胞移植を受けた詳細の記録です。

3回目の入院その21

Day44-47 味覚障害の憂鬱

昨日は千羽鶴を貰った話を書きましたが、孤独な闘いの中でも心配してくれている人たちがいる事、家族をはじめ古くからの友人たちの励ましなどで、絶対に無事に退院して元通りの生活に戻ることを考えられるようになってきていました。

この頃の血液データは

WBC 12000前後

Hb 3.5前後

Plate 210000前後

でした。白血球は多く、ヘモグロビンは少ない状態でした。白血球数が多いためGVHDが顕著に出ているように思えました。私の場合は皮膚でしたが、太もも近辺まで降りてきていて、かゆみに耐えるのが大変でした。首と腕のあたりはだんだんと皮膚が入れ替わり、白くなると同時にかゆみは引いていきました。口内炎もだいぶ収まり、ようやく顔の腫れもすっかり引いて来ていました。GVHDは出ないよりも出た方がいいとは言え、新しい白血球に順応していくのは時間がかかるように思えてました。実際、術後1年半の今も軽い口内炎が残っていますが、だいぶ小さくなってきておりもう少しで終わると信じています。

また、味覚障害が続いていたのですが、この頃、ようやく甘いが戻って来ていました。他の味に関しては”酸っぱい””と””辛い””は”痛い、”苦い”はよくわからない味、”旨味”とか”コク”とか複雑な味は感じることが出来ませんでした。主治医や看護師さんは「だんだんと戻ってきますよ」と言ってくれるのですが、食事のたびに憂鬱でした。放射線治療の影響と思われますが、唾液が少なく、食事もお茶で流し込むような感じでした。

ヘモグロビンが少ないせいか、病室を少し歩くだけで息が切れる感じがしました。食事で鉄分を取りたかったのですが、味覚障害の為どうにも食が進みません。主治医からは生もの以外であれば病院食以外の物でも食べて良いと許可が出ていたので(逆に食べれるものを食べてくださいと言われてました)、家内に頼んで肉の缶詰とかカップ麺とかたんぱく質、味の濃いモノを摂っていました。

体重は入院時64Kgだったのですが、この頃は53Kgまで落ちていました。ふと気が付くと、足がほとんど骨と皮状態まで細くなっていて、長い入院生活を物語っていました。

皮膚のGVHDは不思議なことに指先、頭から始まって下に移動して行ってました。

また次回に続きます。

 

3回目の入院その20

Day41-43 千羽鶴

さて、皮膚の副反応も次第に広がって行っていました。指先、頭から始まり、体幹の方まで広かり、この頃は腰のあたりがメインでした。当然点滴のステロイドも継続で、やはりステロイド系の塗り薬と併用していました。時々、何の前触れもなく熱が出て解熱剤も点滴から投与されたり、免疫抑制剤も入っていたので、まだカテーテルは取れないでいました。カテーテルは私の場合首の静脈に設置されたのですが、1か月半も付けっ放しでだいぶ慣れてきていました。針が入っているところは縫って固定してあり、透明の防水シートでカバーしてありました。2日に1回、シャワー後にこのシートを看護師さんに張り替えてもらっていました。首のカテーテルで不便だったことはTシャツの着替えの時が大変でした。

この頃のデータは

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白血球数は12000前後まで落ち着いて来ていました。ヘモグロビンがなかなか上がって来なかったのは、食事が影響していたと思います。総蛋白も低い数値のままでした。体重も10キロ痩せていました! 寝たきり生活で特に運動するでもなく、筋肉は縮小したという表現が正しいのか、食事からたんぱく質が取れないので筋肉を使ったという表現が正しいのか?どちらにしても、脂肪も落ちたけども筋肉も落ちてしまっていました。このことが、後のリハビリを長引かせた原因になっていきます。

準無菌室になって、会社の保健師さんが訪ねてきてくれました。

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一緒に働く同僚や仲間から、千羽鶴と寄せ書きを持ってきてくれました。準無菌室でしたので、室内に入ることは出来たのですが、状況から入室を遠慮したようで、ナースステーションに置いて行ってくれました。涙が出ました。完治してまたみんなの前に戻ろうと思いました。

家族だけじゃなく、友人、同僚、みんなが待っているんだと思うと、副反応に克服して必ず復帰しようという意欲が湧いてきました。

また次回へ続きます。

 

 

 

3回目の入院その19

Day38-40 無菌室を出る

さて、皮膚のGVHDに悩まされていたのですが、黒ずみはだんだんと下へと広がっていました。手と、ひじの手前まではもはや脱皮して白くなっていました。体毛がすべて抜け落ちていたので、くっきりと脱皮の後が見えます。顔もだいぶ脱皮して行っていました。頭髪が当然無かったので、この頃から綿のニット帽をかぶっていました。頭の皮膚も当然脱皮して、紺のニット帽ではまるでフケのように付着していました。

この頃の白血球数は15000前後を推移していました。やはり、新しい免疫細胞が私自身を異物とみているようでした。

点滴は、食事が摂れるようになったのに伴い、ハイカロリーのブドウ糖から、生理食塩水に戻っていました。首のカテーテルに血液の逆流を防ぐために24時間流していたので、水分過多だったのかトイレが近くて夜、深く眠れなかったのを覚えています。

無菌室の予定は3週間が、ほぼ6週間近くになって来ていて、半分不安だったのですが、ようやく準無菌室が空いたという事で40日目にして病室を移動しました。準無菌室は2人部屋で少しは孤独を解消してくれるかと思いきや、相方はおらずまた数日間ひとりでした。実際は、血球数が上がって来ていたので大部屋でもよかったそうだったらしいのですが、GVHDがひどいという事で準無菌室になったようです。準無菌室も、空調で管理されていて、付き添いや見舞いの出入りも無菌室ほどではありませんが制限がありました。でも、あの一人部屋からようやく脱出できたと思うとあとはGVHDとの闘いのみだなあと思っていました。今思えば、実際は闘いと言うより、順応と言う表現の方が正しく、だんだんと引いていくのを待つしかない状態だったと思います。

また次回に続きます。

 

3回目の入院その18

Day34-37 GVHD

さて、前回まで皮膚にGVHD が出始めたことを書きましたが、しばらく続く事になります。他の症状としては指の感覚が麻痺していて、痛みを伴ってきました。同時に手の皮膚が剥け黒い手から白い手に代わって来ていました。

この頃のデータは

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白血球が15000!と規格を大幅に超えていました。CRPは標準値でしたので特に炎症を起こしているでもなく、自分で自分の体を攻撃しているような状態だった事がよくわかります。口内炎もだいぶ収まり、食事もだいぶ採れるようになってきていました。病院食は栄養士さんと相談してメニューをアレンジすることが出来ました。私は朝食はパン食、昼は麺(そうめん)、夜はおかゆにしてもらっていました。ただ、データが物語っていますが、たんぱく質不足で、退院したらたらふく焼肉食いに行くぞ、なんて思ってました。家内にさんまの缶詰とか魚肉ソーセージなんかを買ってきてもらい食事と一緒に食べていました。GVHDとして特に下痢する事もなく過ごせたのが幸いでした。

黒ずみは胸からお腹の方へと広がって行っていました。手のひらが脱皮し、腕くらいまで剥けてきてまるで真夏に軍手をして庭仕事をした時のようになっていました。とにかくむず痒かったのですが、掻くのを我慢してシャワーの時などに自然とはがれ乙るのを待たなければなりませんでした。

無菌室生活も35日を過ぎ、孤独を感じていた時期でした。話をする事が出来るようになり、看護師さんとたわいもない話をしたりするのがこの頃の楽しみだったと思います。最初の入院計画では無菌室は3週間の予定でしたが、5週間を過ぎていました。自分は状態が悪いのだろうかと思い、看護師さんに尋ねると、白血球数が戻ってきたので、一般病棟に移ることは可能らしかったのですが、空きがなかったらしいです。それとGVHDが治まるまで待っているのも理由のようでした。無菌室にいる以上、お見舞いの人も制限されていたので、人恋しさはなおさらでした。

また次回に続きます。

 

 

3回目の入院その17

Day31-33 GVHD

昨日、GVHDが始まった事を書きましたが、事態は悪化していきました。

白血球数が7000-8000まで急激に回復したのはいいのですが、新しい白血球が自分の体を異物と反応しているようです。私の場合は内臓には反応が無かったのですが、皮膚がものすごい勢いで黒ずんでいきました。最初は指先だけだったのですが、腕から背中、胸、顔へと広がっていきました。強烈なかゆみとまではいかないのですが、むず痒いのが一日中続き、気分は最悪でした。主治医の紹介で皮膚科の先生に無菌室まで来ていただき、移植後副反応(GVHD)の診断をいただきました。ステロイドも連続投与が決まり、1日2回、点滴に追加されました、

その前の週にマルクをしていたのですが、その結果を知らされました。結果は95%入れ替わっているとの事。この数字を喜んでいいのか、心配な数字なのか、主治医に尋ねてみましたが、GVHDが収まったころにもう一度検査しましょうと言われ、まだ予断は出来ないという事なんだろうな、と思っていました。

主治医は続けて、GVHDが出ているという事は、ほとんど入れ替わっていて、出ない人よりも出た方が結果は良いとも付け加えました。私の場合は4段階中3段階のようで、非常に重篤な状態ではないので、乗り越えていきましょうと励まされました。幸いにも皮膚だけでしたが、黒ずみは全身に広がって、GVHDが収まってくるにしたがって皮膚が剥けて再生すると説明を受けました。私の場合、この時点から約1か月間かけて2回脱皮(笑)することになります。シャワーを浴びると身体を拭くときに黒い皮がぽろぽろ落ちてきます。ただ、シャワーを浴びながらこすったりするのはNGで、自然に剥けてくるのを待つしかありませんでした。シャワー後には処方されステロイドの軟膏を塗るのですが、背中が届かなかったので、看護師さんによくお願いしていました。

日焼けの時のようにべりっと剥がれてくれればよいのですが、細かくポロポロ剥がれてくるので、ベッドサイドに皮膚の粉が散らばって、掃除の人には申し訳なかったと思っています。

次回は無菌室追い出される?について書きます。

 

3回目の入院その16

Day27-30 副反応始まる

さて、マルクも終わり、造血作用もだんだんと回復に向かっていました。28日目のデータは、

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白血球も血小板も基準値に入ってきていました。ヘモグロビンだけが低い値を示しています。食事が口からとるのが大変だったので、栄養補給はもっぱれ点滴でしたので、鉄分やたんぱく質が採れていなかった事が原因のように思えました。それはッ血中たんぱく質の低さが如実に物語っていました。お腹の調子も改善してきたので、30日目から、病院食を本格的に再開して貰いました。粒状のご飯は無理っぽかったので、おかゆにしてもらっていました。味覚障害の為、味がさっぱりわからない状態でしたので、おかゆに‘’ゆかり‘’をかけて食べていました。お浸しとか野菜類が消化できるか不安でしたので、食べれなかったのを覚えています。その代わりに100%の野菜ジュースでビタミン補給していました。肉や魚もすこしづつ食べ始めました。無菌室でしたので、病院食も無菌室専用の病院食で生ものや菌類は一切ありません。フルーツは皮をむいた物であれば大丈夫でした。さくらんぼやイチゴとかはNGです。病院食に飽きてきていたのと味覚障害のために食欲はあまりなく、早く良くなって寿司とか焼肉とか食べに行きたいなんて考えていたと思います。

先日、指先の違和感と、手の黒ずみを書きましたが、この頃だんだんと悪化していきます。手の黒ずみはだんだんと腕の方まで広がって、体幹の方にも広がっていました。指先の痛みもひどくなり、粒薬を包装から取り出すことも出来ませんでした。いわゆるGVHD(副反応)の始まりでした。黒ずみはむず痒く、夜中に何度も起きてしまうほどでした。痒さを抑えるために軟膏を処方して貰い、点滴には今までの抗生剤の代わりにステロイドが加わりました。それと一旦治まったように思えた口内炎もぶり返してきました。

せっかく新しい造血細胞が定着し始め、回復しだしているのに、GVHDに負けるわけにはいきません。医師の処方した薬を頼りに耐えるのみでした。

また次回に続きます。

3回目の入院その15

DAY22-26

さて、前回書いた通り、体調は次第に回復してきていました。この頃の血液データは、

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写真は26日目のものですがその前3日間くらいは

WBC 3500-6100

Hb 27-30

Plate 210-240

とほぼほぼ回復してきていました。ヘモグロビン以外は正常値に入ってきており、日中少し病室の中を歩き回れるくらいになっていました。病室は最上階の10階にあり、南側に面していたので窓からは蔵王山がよく見えました。眼下には国道が走っており、みんな朝昼晩と忙しそうに車を走らせていました。それを見ていると、自分も早く復帰して働きたいという気持ちが久々に湧いてきました。

CRPも正常値まで落ち着いて来て、下痢も少しづつ治まって来ていました。それに伴い、少しづつ食べ物を口にしだしていました。自分で食べれそうな物を少しだけでしたので、ブドウ糖の点滴は継続のままでしたが。

点滴タワーからはモルヒネとが外され、抗生物質も1種類減らされました。口内炎はまだ少し残っていましたが、かなり改善されてきていました。顔の腫れも引き、洗顔の時に鏡を見て、やっと自分に帰ってきたように思いました。

移植術後3週間が経過している事と造血機能が回復してきている事もあり、24日目に骨髄細胞のチェックをしましょうという事になりました。そうです。あの嫌なマルクです。。。マルクをするにあたってはナースステーションのとなりの処置室へ行かなければなりませんでした。マスク着用でしたが、約1か月ぶりに無菌室から外に出ることが出来ました。処置室まで車いすで連れて行って貰いベッドに仰向けになります。大学病院ですので、主治医のほかに研修医などが数名でやって来ました。腰のあたりを消毒しいよいよ始まりました。この日は若い研修医が主治医の指導の下骨髄採取にあたります。ちょっと怖かったのですが、麻酔を打たれ、あのグリグリに耐えていました。痛みは主治医と変らずと言ったところで終わりました。止血をしてもらいまた車椅子で無菌室に戻りました。マルクの結果はHLA研究所に送って検査するとの事で、1週間後になるという事でした。相変わらず、マルク後2~3日は腰の違和感が続きました。

また次回に続きます。