白血病からの生還(データ付き)

白血病で幹細胞移植を受けた詳細の記録です。

3回目の入院その2

病室は準無菌室

さて、8月16日に入院手続きを済まし、10階のナースステーションの前で待っていると、なじみの看護師さんが笑顔で病室の案内をしてくれました。付いて行くと、大部屋とは別の方向に向かっていきます。廊下を歩きながら、ここが無菌室ですと説明を受け、その無菌室を過ぎた隣の部屋に案内されました。そこは準無菌室で2人部屋でした。ドアを開けると、部屋の入口ににはシャワーブースとトイレがそれぞれ独立してありました。その先にもう一枚ドアがあり、そのドアを開けるとベッドが2台ありました。それぞれカーテンで仕切られるようになっています。廊下からドアを2枚隔てているためにかなり静かです。先に入院している方が一人いて、挨拶をして空いている方のベッドに荷物を置きました。ドアが2枚あるのは必ず1枚のドアが閉まった状態で入室するようになっています。部屋の中はフィルターを通った空気が絶えず供給され、正圧がかかってドアを開けると風が出ていきます。どちらかと言うと、重症患者や、移植後の回復期の患者が入る部屋です。

最初は1週間ほど大部屋で体調を観察しながら、血液、レントゲン、CT、などの各種検査をして、首に点滴用のカテーテルを付けてから準無菌室か、無菌室に入って移植の前処置になると聞いていたので、最初から準無菌室だった事は「自分は重症患者なのか」と思い、ちょっと憂鬱でした。翌日、心配になって看護師さんに聞いてみると、単純に大部屋が空いていなあかっただけと言う事で、胸をなでおろしました。

前処置までは部屋から出て、1階のコンビニとか喫茶室とかに行っても大丈夫だとわかり、検査のスケジュールの合間を見て、病院内をうろうろしてました。

入院後、3日目に移植計画の詳細の説明と、見通しについて主治医から説明があり、私は家内を呼んで一緒に聞いてもらいました。

最初に病状の説明を受け、骨髄移植に踏み切った理由と、幸いにも同種間移植である事、移植の成功率に関するリスク(やや高い)、現状の私の造血細胞の状態から移植後の5年生存率は20%である事、などの話を聞きました。

5年生存率の数字に家内はびっくりしたのか、悪い予想が的中したのか、泣いていました。

泣かせてしまって申し訳ないと思いながら私は、淡々と説明を聞きいていました。治療しなければ数か月しか生きられないのが判りきっていたので、とにかく治療を受けて無事に帰るということが目標になりました。主治医に治療はお任せし、自分は辛い治療に耐えるのみと思っていました。スケジュールは、

入院した週は各種検査。

8月22日に首へカテーテル設置

8月23日に無菌室へ移動

8月24日~26日の3日間で全身放射線照射

8月28日、29日に強い抗がん剤(エンドキサン)投与

8月31日に末梢血細胞移植

と言うスケジュールでした。以後、移植日を”0”日目として日数をカウントしていきます。

検査漬け

入院最初の週で、レントゲンもCTも検査を終え、歯科のチェックも終わりました。検査の結果はすべて異常なしでした。CTの時は造影剤の注射をされるのですが、体の内側の血管から熱くなる感覚があり、少し気分が悪くなりました。全身のCT撮影だったので、機械の中に10分くらいいたと思います。おかげでCTはトラウマになりました。(笑)

 

次回はカテーテルの設置の事を書きます。

 

3回目の入院その1

入院前夜

5回目の抗がん剤を受けた所まで書き進めてきましたが、いよいよ移植の為の入院を迎えます。

私は、移植の入院は1回目や2回目のように短い入院とはいかないと考えてました。その為にいろいろと準備をして移植に臨みました。特に準備したものは、

タブレット

安い8インチのやつを新品で買いました。Wi-Fiの設定とか、自宅で動作確認をしてから持ち込みました。これは、別にPC的に使う目的ではなく、Youtubeを見るために準備しました。中国製の安いやつ(税込み8600円)でしたので、動作はタッチの反応が遅かったり不安定でしたが、Youtubeを見る分には問題なく動作してくれました。

・レンタルポケットWi-Fi

自宅ではWi-Fi環境が整っていたので、ポケットWi-Fiは買い取り2年契約とかせずに、レンタルにしました。容量無制限の契約で月3800円程度でした。タブレットとこのWi‐Fiのセットのおかげで退屈しないで済みました。病室のテレビはテレビカードを買ってきて視聴するシステムでしたので、長い入院だと結構な金額を使います。1000円で1000分ですので、1回目の入院の時は、3日に1枚とか買っていました。冷蔵庫もこのカードから1日100度数引かれるシステムです。タブレットWi-Fiのおかげで、テレビカードは週に1枚くらいしか必要無くなりました。

・高校の数学の参考書

私はエンジニアなのですが、最近数学が忘れて来たなと感じていたので、勉強しなおすにはいい機会だと思い、チャート式の参考書を買い、持ち込みました。が、あまり、手を付けずに今も積読になっています。(笑)

・ヘミングウエイの洋書

仕事で英語を使う機会が多かったのですが、全然使わないと言葉は忘れてしまいます。ですので、英文の「キリマンジャロの雪」と「フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯」を買ってきて、全部読み切って語彙数を増やそうと思ってました。しかし、両作品とも最後に主人公は死んでしまうストーリーなので、実際に読み始めたのは移植後の急性GVHDが収まったあたりからでした。

さて、これだけ時間を潰せる物を揃えて持ち込んだ訳は、無菌室は一人部屋で時間を持て余すだろうと思っていました。ところが、実際の移植は、順を追って後述しますが、何も出来ない、やる気も起きない辛い時間が待っていました。

・電気カミソリ

いつも私はシェービング派だったのですが、血小板が少ない時に、顔に切り傷とか作ってしまうと、出血がなかなか止まらなくなる恐れがあるため、フィリップスの電気カミソリを買いました。

あと、入院の3日前に湯殿山神社で病気治癒のお祓いをしてもらい、お札を貰ったので、そのお札も忘れずに持ち込みました。

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3回目の入院

いよいよ8月16日になり、私は入念に準備したものをキャリーケースに詰め込み病院に向かいました。入院手続きを済ませ、病棟に案内されます。

この先はまた次回に続きます。

 

 

 

2回目の退院その6

通院しながらの食生活

4回目の抗がん剤を受けていた時も相変わらずの食欲不振でした。入院中もそうでしたが、嘔吐するまではいかなかったのですが、料理している匂いとかもダメでした。魚の匂いもダメで、酷い時は肉を焼く匂いもダメでした。そういう時は基本そうめんとかうどん、それに豆腐が主食でした。抗がん剤の影響で味覚障害も出てきて、味の感覚が弱くなって濃い味のものを好んで食べていたと思います。白米にもふりかけが必需品でした。

あと、辛かったのは生もの禁止です。ちょうどサクランボのシーズンでしたが、果物でも皮ごと食べる果物は禁止でした。ですので、サクランボは去年食べられませんでした。皮ごとがだめな理由は、表面に付いている少量のカビも食べてしまうためで、リンゴとか、なしとか、ミカンとか、皮をむく果物はOKでした。グレープフルーツは薬が効かなくなるのでNGです。

当然、魚の刺身もダメでした。寿司くらいたまに食べたかったのですが、我慢していました。

ヨーグルトや納豆なども、菌の一種なので一応禁止されていましたが、便秘と下痢を繰り返していたので、ビオフェルミン顆粒を処方して貰っていたので、善玉菌であることを祈りながら、時々口にしていました。これで、酷い下痢とかにはならなかったので、私の場合、まだ腸内善玉菌が活躍してくれていたんだと思います。

実際生もの解禁になったのは移植して退院した後で、白血球数が十分回復してからでした。

抗がん剤5回目

7月22日から5回目のビダーザの投与が始まりました。そういえば4回目からステロイド剤の投与は飲み薬に変更されていて、1日目と2日目の朝にプレドニン錠を飲むだけでした。ですので、点滴は吐き気止めとビダーザの2種類のみとなりました。

それでも会計金額はそう変わらず、毎日2万5000円くらいの支払いをしていました。3割負担でこの金額ですので、実際の抗がん剤の値段は1本8万円という事になります。高額医療費控除で後日戻ってくるにしても、患者の財布には優しくない治療です。そういえば、場合によっては輸血をすると言われてましたが、輸血自体も結構な金額みたいです。(基本献血なんですけどね。)お金もかかるのですが、命には替えられません。ただ、良くなる事を祈りながら治療を受けるしかありませんでした。

5回目の抗がん剤終了時の血球数は

WBC  白血球 1280

Hb ヘモグロビン 10.4

Pl 血小板 99000

とやはり、低いままでした。抗がん剤投与の最終日に主治医の診察もあり、次回の通院での投与は無しで、入院してフルの造血幹細胞移植に入ると説明を受け、8月15日から入院になりました。

次回はついに入院3回目の話になります。

 

2回目の退院その5

4回目の抗がん剤

さて、6月21日に弟の造血幹細胞の採取が終わり、あとは無菌室が空くのを待ちながらの抗がん剤投与となりました。

6月27日から5日間の投与でしたが、初日の血球数は

WBC 1460 (基準値3800-9600)

Hb 10.2 (13.7-17.4)

Pl 69000 (131000-365000)

と前回正常値まで戻っていたPl(血小板)までが低くなっていました。Blast(球芽)も30%と高めの数字です。

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データを見ていただくとよくわかると思うのですが、項目46番~50番の白血球の要素がの数値が”フノウ”と言うのが、事の重大さを物語っています。最初、このフノウの意味が分からず、楽天的な私は検査が間に合わなかったんじゃないか?とか思っていましたが、後日主治医に聞いたところ、測定限界以下と言われました。

退院して通院での治療をしていたわけですが、実はかなり重症だったみたいです。家の中でちょっとした片付けをしたり、階段を上り下りするだけで、息切れとかなりの疲労感が襲ってきていました。

前回同様に、ビダーザの投与を受けていて、3日目に看護師さんがやって来て、「外人さんの入院患者さんがいるんだけれども、なかなか伝わらなくて、生ものを食べてはいけないって言っているのにも関わらず、生クリームのケーキを食べているんです。どう説明すれば良いのですか?」と聞かれ、なるべく簡単な表現でメモを作り渡しました。渡しながら少し発音練習もして。(笑) 4日目に同じ看護師さんがやって来て、「バッチリ伝わりました。ありがとうございます。」と感謝されました。これで点滴代、少し安くしてくれないかな?なんて思っていました。

前回、NHKの”仕事の英会話”を見ていたのと、海外赴任経験がある事が広まっていたようでした。しかし、日本にやって来て、私と同じような血液系の病気に罹っている外人さんも大変だと思ってました。お金にしろ、身の回りの事にしろ、不自由で仕方がないと思いました。もし自分が、海外でこんな病気になってしまったらと思うとぞっとします。

入院中にも感じていましたが、私も含めて老若男女いろいろな患者さんに対し、丁寧に接してくれて、説明してくれる看護師さん医師団の皆さんには頭が下がります。命を預かる仕事とは大変な仕事だと思いました。

5日目の血球数は

WBC 1420

Hb 9.8

Pl 111000

と低いままです。抗がん剤ビダーザで寛解まで持ち込むのはどうも無理のようだとこの時感じていました。

次のビダーザの投与は7月22日からとなり、それまではまた感染症に十分注意して過ごすように主治医に言われ帰宅しました。

もちろん、生クリームのケーキも禁止です。(笑)続く。

 

2回目の退院その4

幹細胞採取

さて、前回書き進めた通り、私の4回目の抗がん剤治療は6月27日からでしたが、それに先立つこと2週前に弟の幹細胞採取となりました。弟には6月17日から21日まで休んで貰い、入院での採取に協力してもらいました。17日は私が迎えに行き、入院手続きも一緒に受けて、10階の病室へ向かいました。病室に行くと、なじみの看護師さんたちに迎えられ、一応、病院内での過ごし方を聞きます。初日は血液採取とレントゲンなどの検査を行い、後は自由に過ごせます。検査の結果はすぐに出て、血液採取の結果もレントゲンも特に異常なしでした。翌日からの予定の説明を受け、18日、19日とG-CSFの点滴を受けます。その後、20日に幹細胞の採取と、21日は予備日と言う説明でした。

G-CSFとは顆粒球コロニー刺激因子と言うもので、白血球を増加させる薬剤のようです。十分に白血球を増やしておいて、20日に約2時間かけて血液を循環させながら幹細胞のみを採取するそうです。循環させてとは、両腕に点滴のチューブを繋ぎ、透析のような機械を通して幹細胞だけを採取するという事でした。そして、採取した幹細胞は私が移植する時まで冷凍保存しておくという説明でした。

骨髄移植の場合、ドナーも全身麻酔を受けて採取し、凍結とかせずにそのまま患者へ移植ですので、ドナーの負担は全然違うようでした。また、幹細胞移植の場合は、患者への移植のタイミングに合わせる事もしなくてよいメリットがあります。

20日の朝10時くらいから採取と聞いていたので、昼過ぎに病室に行って見たのですが、まだベットには戻っていませんでした。1時過ぎに戻って来て、昼食を食べながら様子を聞きました。必要量が採れたかどうか夕方わかるとの事で、夕方もう一度会いに行くと、2割くらい足りなかったらしく、翌日もう一度採取という事になりました。

21日はちょうど昼頃、終わり、ベッドに戻って来ていました。2時間くらいベッドで安静にして、それから帰宅となりました。

その日の私は、2回も痛い思いをさせてしまって、申し訳なかったのと、感謝の気持ちでいっぱいでした。弟に生きる力を貰った気持ちでした。兄弟がいて良かった、とこれほど思った日は無かったと思います。

あとは、無菌室が空いて、私が移植に耐える番だ。必ず復活して見せるという思いがふつふつと湧き上がってくるのでした。

ちなみに弟は22日から普通に仕事に行っていたそうです。

次回は4回目の抗がん剤投与です。

 

2回目の退院その3

通院での抗がん剤

さて、入院中は7日間かけて抗がん剤を受けていたのですが、通院の場合は月曜から金曜の5日間で同じ量の抗がん剤の投与を受けます。やはり、抗がん剤、3日目あたりからお通じ問題が発生し、お腹が張って食欲が落ちました。前回は病院内でしたので、すぐに下剤とか貰えたのですが、3日目に下剤を処方して貰いました。また、点滴の針は毎日差し替えるので、右腕左腕と交互に点滴を受けていました。5日目の投与完了の時の血球数は

WBC白血球数 1570 (通常は3800~9600)

Hb ヘモグロビン 10.5 (通常は 13.7~17.4)

Pl 血小板 168000 (通常は131000~365000)

血小板だけは通常値まで戻りましたが、白血球もヘモも低いままでした。

次の予約はまた3週空けて、6月27日からの予約になりました。

この通院での抗がん剤寛解白血病細胞を無くす)を目指すわけでは無く、白血病細胞の増殖を防ぐのが目的で、最終的には幹細胞移植の治療で治癒を目指すのが、主治医及び教授を含めた医師団の結論のようでした。

造血幹細胞移植

白血病の治療の移植にもいろいろあって、

①骨髄移植

⓶造血幹細胞移植

③臍帯血移植

④自家細胞移植

などがあり、①と⓶はフル移植と呼ばれています。強い放射線の照射と抗がん剤で自分の骨の中の造血機能を完全に叩いておいて新しい骨髄、もしくは造血幹細胞を注入し、骨髄への定着をさせる治療法です。③、④などはミニ移植とも呼ばれ、抗がん剤もあまり強烈なものを使わず、体力のない高齢の方などはこのミニ移植が選択されるようです。一般的には①、⓶のフル移植の方が再発率が低いようです。

私の場合は、弟とHLA(人白血球抗原)が一致していたので、⓶の造血幹細胞移植になりました。ただ、フル移植には年令の目安で55歳以下と言う目安があり、私は移植時52歳でしたので、ギリギリでした。実際に移植を受けて初めて分かるのですが、かなりの体力消耗を伴います。現在、移植の入院から退院して7か月が経過しましたが未だに半分くらいしか体力は戻って来ていません。55歳の年齢のリミットと言うのがよくわかりました。1回目の入院の時も、2回目の入院の時も私より年上の患者さんはやはり、ミニ移植でした。

次回は弟の造血幹細胞採取について書きたいと思います。

 

 

 

2回目の退院その2

小林麻央さんの事

まず、今日は小林麻央さんの訃報のニュースに驚きました。

帰宅し、子供さんたちとか、家族と一緒に写った写真とかアップされてて、抗がん剤が効いて快方に向かっているものだと思っていましたが、がんに勝てなかった事はさぞや悔しかったことと思います。同じくがんと戦った者としては、日々希望と絶望を繰り返して来た事は、重々察することが出来ます。いま私は、家族に囲まれ、もうすぐ仕事に復帰する所までたどり着きましたが、実際の入院中は生と死の狭間で覚悟したこともありました。がんと闘う治療と言うのも、強い薬や、放射線に耐える非常に過酷なものです。あの辛さは実際に治療を受けてみないとわからないと思います。

でも、ネットで見かける彼女の笑顔には、私自身も勇気づけられたし、あの笑顔ならきっと助かると信じてました。辛い治療が続いていたはずなのによく頑張ったと思います。心よりご冥福をお祈りします。

通院での抗がん剤

さて、5月29日より通院での抗がん剤の投与が始まりました。

投与前の血球数は

WBC1620

Hb 9.8

Pl 178000

まで多少回復していました。ただ、BLAST(がん細胞)は22%と高止まりでした。

29日は朝一に受付をし、処置室に呼ばれます。採血と体温測定、血圧測定、か血中酸素量を調べます。その後、主治医の問診を受け、体調が悪くなっていないことを確認してから抗がん剤の投与になります。

昨日、少し紹介した化学療法室に移動し、受付をすると、すぐに点滴用のブースに案内されました。最初に、生理食塩水の点滴が始まります。次に吐き気止めの点滴に繋ぎ替えられます。10分ほどで吐き気止めが終わると、院内薬局から抗がん剤(ビダーザ)が運ばれてきます。これを約40分かけて点滴を受けます。

私は、リクライニングソファーに座り、背もたれを倒しリラックスした状態で点滴を受けてました。テレビにはヘッドホンが付いており、NHK教育の大人の英会話とか仕事の英会話とか見ていました。時々様子を見に来る看護師さんがテレビを見て、めずらしいですね、と言われたのを覚えています。

私は海外駐在経験があり、入院前までは海外の営業も私の役割でしたので、英語はまあまあ話すことが出来ます。そして、この時は、早く復帰してまた世界で活躍したいと思っていました。まだ移植もしていないのに、気ばかりが焦っていたように思います。

点滴が終わると、針が刺さっていたところを5分くらい止血して終了です。ファイルを受け取り、会計を済ませて帰宅するのを5日間続けます。

毎日の支払いは、2万5000円!患者負担分の実費だけで、この金額です。また、飲み薬も処方されていて、その費用も月に8万円を超えていたと思います。思わぬ出費です。とはいえ、入院していた時はそれ以上の支払いがあったのですが。。。

総額とかは後日書くことにします。

抗がん剤が終わると、血圧が少し低下するようで軽いめまいが来ます。会計が終わるころには落ち着くのですが、ビダーザとはいえやはり抗がん剤でした。

今日はこの辺で。次回は抗がん剤終了時の血球数についてです。